■混乱の中で公民館館長として
廣野隆俊さんは、東京電力福島第一原発事故を振り返って、「原発で避難しないといけなくなることは全然わかんねかった」と語る。当時、廣野さんは山木屋の公民館館長に就任したばかりであった。事故が発生した翌月の4月11日には、山木屋が計画的避難区域になることが公表されたが、町の行政から山木屋公民館に何らかの指示が来ることはなかった。そのため廣野さんは、館長として山木屋公民館の活動の一時中止を独自で判断した。町全体が混乱していた。同年、7月15日から川俣町内の仮設住宅への入居が始まり、仮設住宅に付随する集会所で公民館活動を再開した。高齢の人が多かったため、ウォーキングを中心に卓球などの運動の会を企画し、避難中も公民館館長としての仕事を全うした。避難中であっても、山木屋の人たちがばらばらにならず、健康でいられるようにという、廣野さんの想いがそこにはあった。
■帰還して何ができるのか
廣野さんは、山木屋に避難指示が出ている間、山木屋農村広場見守り隊としてパトロールに山木屋に来ていた。その時に、大学の調査で学生が山木屋に通っていることを知った。学生のような若い人たちが通っているぐらいなら戻っても心配ないなと感じた。そして、2017年3月31日に山木屋地区の避難指示が解除されると、すぐに廣野さんは帰還した。それからは公民館館長として、公民館事業でグランドゴルフの会や吹矢の会をつくり、帰還した人たちが交流する場をつくった。一方で、多くの若い人たちが山木屋に戻っていないことをどうにかしなければと考えている。「若い人たちが中心になって、山木屋で農業をやってほしい」と廣野さん。そのためにまずは住んでもらわなくても、通いながら農業ができるような環境をつくっていこうと考えている。
■帰ってきた場所で種を蒔く
山木屋で好きな場所は、と尋ねると「家だな」と廣野さんは答える。山木屋には、盟主八軒屋敷と呼ばれる、立地が良い家がある。そのうちの一つが廣野さんの家だ。日当たりや農地としての環境、眺望が良く、廣野さん自慢の家だ。家からは2㎞先まで景色が見渡せる。事故前はここで農家としてたばこの栽培を主にしていた。もう帰ってこられないかもしれないと危惧していたが、今では除染も進み、自分の畑で野菜作りもしている。これからは、花を植えたりしながら、山木屋の美しい景観をつくっていきたいとも考えている。そして、廣野さんはその畑で、農業試験センターで保存されていた残りわずかであった山木屋在来種のそばの種を、少しずつ増やしていった。今、そのそばで山木屋のまちづくりを企んでいる。
■山木屋在来そばで山木屋の魅力を世界へ届ける
廣野さんは今年、仲間たちと共に「山木屋在来そば振興組合」を発足した。山木屋在来そばは、山木屋で栽培されてきたそばで、一時は事故の影響で途絶えかけたが、廣野さんが少しずつ増やした種を元に生産を拡大している。これから山木屋で、農家5人でより生産数を伸ばしていく計画だ。山木屋在来そばのことを「(他のそばと)まるっきり味が違う。香りがいい」と廣野さんは評する。この山木屋在来そばを、山木屋の名物にしようと邁進している。今年の2月には、「東北復興宇宙ミッション2021」で宇宙に滞在した山木屋在来そばの種が7月に帰還し、8月に町内の山木屋中の畑で山木屋中学校の生徒らの手によって約180粒(9グラム)が畑にまかれた。山木屋在来そばを「山木屋の名物として売っていきたい」と廣野さんは語る。そばの種は10倍増えれば上出来だそうだ。廣野さんが蒔いた種から山木屋の魅力が、世界に広がってほしいと願う。
(ライター 佐々木大記(川俣町山木屋在住))